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部屋の整理をしていたら、昔恋人が撮った海の写真を見つけた。




何年も喉元に苦い塊を抱えていた。

それはとても暗く冷たく、言いたかった言葉や、言ってしまった言葉、気付いて欲しい、気付いてしまった気持ちを飲み込む時に、嫌でもその存在を認識しなくてはいけない、しこりのようなものだったけど、たったひとつの言葉と小さな約束で、すっと溶けて喉元を通って行くのがわかった。



世界はこの日のようにずっと輝いて、ただそこにあったのに、長い間気が付かなかったのは、しこりのせいだったのか、それとも見ないふりなのか、苦味はいざ無くなってしまうと少し寂しい。



ずっと救われたいと思っていた、救われさえすれば全てを許せると思っていた。でも違うのかもしれない。



許せないこともどうしようもないことも、少しの寂しさとともに抱えていくしかない。それは人間的でとても悲しく、同じくらい幸せなことだ。

2018.01.21

喉が痛いなあと、うかうかしてたらすっかり風邪を引いてしまった。

目覚ましをつけていた時間をとおに過ぎた頃に、やっと起き出したのはいいものの、熱が出切った病後のためぼんやりしている。

午前中に動くのは諦めて、もう一度観たかったマイヤーウィッツ家の人々を鑑賞した。

 

小さなことから大きなことまで過去のあれこれを思い出して、やっぱり許せないと思いつつも、たまに顔を見ると、懐かしさやら愛おしさやらが勝ってしまい、結局はなあなあになってしまう。

肉親との確執、と字にすると大袈裟かもしれないけれど、あの憎みきれない憎しみというのは、誰しもが抱えているものなのだろうか。

 マイヤーウィッツ家の三姉弟を観ていて、そんな事を考えていた。

 

少し元気になったので、作り置きもかねて夕方から料理。何品か作ったら、すっかり日が暮れてしまった。少しだけ日が長くなっているのが嬉しいが、まだ春は遠い。

2018.1.13

2年ほど前からか映画をよく観るようになった。

 

最初はただの現実逃避で、昔好きだった映画を観直していたのだけれど、今観てみると魅力を感じなくなった映画もあって、じゃあその逆もあるかしら?と、ジャンル問わず(ホラー以外)食わず嫌いせず観るようになったのが、きっかけ。

 

その中でも、カサヴェテスのオープニング・ナイトを観てえらく興奮してしまい(ジーナ・ローランズの素晴らしさったらっっ!!)カサヴェテスの作品をレンタルビデオ屋で探しては観てを繰り返していた。

 

若い頃はなんて退屈な映画なのだろう、でも自分を着飾るために観なくてはと、無理矢理に瞼をこじ開けていた作品達が、今はきらきらと輝いていて、こんなに夢中になれるなんて思いもしなかった。

 

映画の始まりから一つ一つ現れる不穏な空気(誰でも抱えている寂しさや、老いへの恐怖、向き合う事への不安や嫉妬、醜さ)が、結末に向かって疾走していくあのスピードと、その後にある静かな収束が、何ともたまらない。

何があっても生活は続く、生きていかなければならないという事を、前向きな意味ではないにしても、思わせてくれる映画たちが、とても愛おしい。

  

 

 

2018.1.5

すぐに忘れてしまう日々のことを書いていきたいと思って、ブログに登録してからもう6年近く経ってしまった。

 

絶対にログインできないと思ったのに、うる覚えのIDとパスワードで、すんなりと門を突破してしまい、6年前から何も変わってないみたいで少し安心もする。

 

6年もあれば、会えなくなってしまった人もたくさん、新しく繋がった人もたくさん、また会えるようになった人も少し。

 

近所に足の先っぽが白い、毛色はロシアンブルーのような野良猫が住んでいて、近所の猫の元締めのような風格で、私はその子を師匠と呼んでいたのだけれど、今日その子が他の場所でタユという名前で呼ばれているのを聞いた。

 

立ち止まってしまっていることや、揺蕩って自分の居場所に迷うこともあるけれど、最近は、ただ否定的な毎日だけではないことに、深く感謝している。